第7日目  2011.11.12(土)
大町駅〜北方〜塚崎〜嬉野  26.7km

745分に大町駅を出発、すぐに福母地蔵板碑がありました。南北朝時代の乱世の中で犠牲となった人々の霊を弔うために応安6年(1373)に造られたとあります。一旦国道にでて北方駅を過ぎたところで旧道に戻ると石階段を登った上に六地蔵があります。ここは長崎街道の塩田道と伊万里・平戸道の分岐点にあたり、伊能忠敬の「測量日記」の文化9年(1812917日の記事には分岐点に丁石があったと記されているとのこと。稲主神社を過ぎると土蔵造りの北方宿本陣跡があります。天保10年(1839)に建てられたもので伊能忠敬も宿泊しています。その先の大崎八幡宮を左に曲がって北方宿を後にします。

長崎自動車道をくぐり、享保橋を渡るときれいに舗装された広い道。ここを歩いている途中で、散歩する婦人二人に挨拶、その一人の旦那がやはり街道歩きが趣味という。旦那が居れば「少し話を聞いていきますか」と先回り。閻魔大王と思われる石像と阿弥陀仏六地蔵(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道)を過ぎた辺りに例の旦那が立っています。早速、この付近の街道の話を聞き、その方も以前長崎街道を歩いたということで、親切にも詳細な街道案内の冊子を頂きました。これは福岡県・佐賀県・長崎県の有志25名で作成した長崎街道図で1万分の一の地図に道順や史跡を表示したもの。これからの街道歩きに大いに役立ちました。こんな出会いも旅の醍醐味です。

諏訪神社を過ぎて1120分に昨日宿泊した武雄温泉に到着。塚崎宿本陣はこの武雄温泉の楼門を入ったところに湯屋(浴場)と隣接してあったという。昼食後、昔の面影の残る道を進むと、長崎でシーボルトの最新医学を習得して武雄に帰り開業したという中村涼庵旧宅がありました。JR佐世保線を渡り、国道を横切って坂道を登って行くと、長崎街道と書かれた標識が。これに沿って進むと悪路の山道、途中には標識がなく不安。ブルドーザーで整地している最中らしく歩き難い道が続きます。やっと舗装道路に出ても左右どちらへ行くかの標識が無く、結局左右を間違えて30分以上時間をロスする羽目になりました。もう少し親切な標識がほしい場所でした。

16時過ぎに明元寺へ。ここの山門は「上使屋の門」、上使屋とは本陣のことで嬉野宿本陣は嬉野川と長崎街道に挟まれた地形上小さい建物だったためにあまり利用されず、大名、長崎奉行の宿泊には瑞光寺が充てられたとのこと。明治以後民間に払い下げられた時に門は必要ないと門だけが明元寺に移設されたとあります。1620分に東構口を通過、嬉野宿に入りました。途中、所々に番号が刻まれた自然石「番号石」があります。番号石は佐賀本藩と蓮池支藩領との境界を巡って紛争が起こったので、境界線上に2千個の番号石(藩境石)が設置されたもの。

暫くすると井手酒造があります。明治元年創業の老舗で早速試飲させてもらって女将(社長)に話を聞くと、なんとここの銘酒「虎之児」のラベルが例の「はやぶさ」の性能計算書(計画書のようなもの)の表紙に使われていますと。JAXAでは以前から焼酎や日本酒のラベルを「しゃれ」で表紙に使う慣習があり、プロジェクト関係者は「虎の千里往って千里還る」「虎穴に入らずんば虎児をえず」「虎の子」の思いを「はやぶさ」に託そうと「虎之児」を選んだとのこと。山型ラベルには「近傍探査」や材料名を「キセノン」にしたり、ラベルには「此機宇宙翔百億里」住所はJAXAの住所、社名は川口酒造とするなど本当に洒落ています。こういう緊張の連続の仕事には「遊び心」が必要なのでしょうね。この関係資料ももらってきました。

シーボルトの足湯や本陣だった瑞光寺を回って17時に西構口に着いて本日は終了としました。今日は嬉野温泉の旅館に宿泊、日本三大美肌の湯に浸かったあと、銘酒「虎之児」で一杯やりました。

福母地蔵板 六地蔵 稲主神社 北方本陣跡 大崎八幡宮
閻魔石仏 六地蔵 楼門 塚崎本陣跡 昼食 中村涼庵旧宅
塚崎宿 山道へ 左右を迷う 明元寺 嬉野宿東構口 番号石
井手酒造 ハヤブサに使われた虎之児ラベル 足湯 瑞光寺 嬉野宿