四国遍路を歩き始めました。
四国札所八十八ヶ所と別格札所20ヶ所をはじめ、お大師さん所縁の霊場を巡りながらの旅です。最後は高野山と東寺(京都)を参拝して完結の予定です。
全長1,567qを6回に分けて歩く「区切り打ち」で踏破を目指します。
歩行ルート作成にあたっては、
 @講談社「週刊四国八十八ヶ所遍路の旅」全30冊(20053月〜200510月)と
 A「四国遍路ひとり歩き同行二人」(へんろみち保存協力会編)
を参考にしました。
@の「週刊四国八十八ヶ所遍路の旅」は、へんろみち保存協力会を創設した故宮崎建樹氏が「先達」として道案内をしており、原則このルートに沿った形で計画を立て、距離や宿泊の関係で省略せざるえ得ない8ヶ所を除く228霊場を巡拝します。

1回目は、1番霊山寺から23番薬王寺までの約240km9日間かけて歩きます。


<四国遍路のはじまり>

衛門三郎伝説(四国遍路の開祖)

四国を巡礼中の弘法大師が、ある日、愛媛県松山市郊外の大きな屋敷に托鉢に訪れた。そこの主人の衛門三郎は強欲で、何度も訪れる乞食僧(大師)を追い払い、最後には大師が持っていた鉄鉢を八つに割ってしまう。衛門三郎には8人の子供がいたが、その翌日から次々と亡くなってしまった。そこで、三郎は托鉢に訪れた人が弘法大師と気づき、今までの自分の行いを悔い、大師を求めて遍路の旅に出た。
しかし、二十数回目巡ったが逢うことが出来ない。順番にまわるのをやめ、逆にまわりはじめる。心身とも疲れ果て、十二番の焼山寺で倒れてしまう。意識が遠のいていき、いまわのきわに「三郎!、三郎!」と呼ぶ声に眼を開くと、弘法大師が現れ、「衛門三郎再来」と書いた小石を握らせた。そして三郎は眠るがごとくこの世を去ったと言われる。
その後、伊予の領主に男の子が生まれる。ところが、その子の手はしっかりと握ったまま開かない。困り果て、安養寺(今の石手寺)に連れて行き、祈念をした。
そうすると、手から衛門三郎と書いた小石がでてきた。
人々は衛門三郎の生まれ変わりと思った。小石は安養寺に納められ、これを機に、寺号を石手寺に改めたという。


真念(四国遍路の父)

四国遍路を二十回以上行ない、「四国邊路道(へんろみち)指南(しるべ)」(1687年)をはじめとする遍路のガイドブックを出版し、精力的に遍路の普及・啓発活動を続けた。また遍路のため四国中に道標を立て、遍路宿と呼ばれる遍路のための宿泊施設をつくった。さらに、遍路に対する「お接待」の風習や、札所ごとの「ご詠歌」も彼や彼のグループがつくったと言われている。

はじめに