14日目 2015.05.10(日) 本宮〜二本松〜福島 40.5km

本宮6:53〜杉田8:30〜二本松10:20〜黒塚12:30〜福島17:40

今日は距離が長いので7時前に出発、左手に安達太良山を見ながらの一日でした。
8時半に無人の杉田駅で休憩をして、時々4号線と合流しながら北へ進み奥の松酒造へ。遠方に安達太良山を控え環境の良い場所にありましたが、本日は日曜で閉まっていました。更に進んで二本松に入り、大隣寺にある二本松少年隊の墓を参りました。戊辰戦争で二本松藩は12歳から17歳の少年62名を緊急徴兵、うち25名が出陣した大壇口の戦いで14名が戦死しここに眠っています。二本松の市街に入り、結構急なまつり坂や行田坂を通りながら大七酒造へ。近代的な大きな社屋でした。ここで銘酒が生まれます。

ここから安達が原に向おうと思ったら、智恵子の生家の看板があったので、ついつい誘われて行きました。智恵子は明治19年、二本松の酒造業斉藤(のち長沼)今朝吉の長女として生まれ、日本女子大を卒業した後は画家の道を選ぶ。大正3年に高村光太郎と結婚する一方、昭和4年に実家の長沼家が破産、一家離散となる。昭和6年に統合失調症の最初の兆候が現れ、以後病状は進行、昭和13年、53歳で死亡。昭和16年に光太郎が詩集「智恵子抄」を刊行。智恵子記念館には智恵子の作品が展示され、特に亡くなる1年前から始めた紙絵の数々が印象的でした。

ちょっと遠回りをして、謡曲「安達ケ原」の舞台の黒塚へ。京都に「岩手」という乳母がいて姫を手塩にかけて育てていた。その姫が重い病気にかかり、「妊婦の生き肝を飲ませれば治る」というので岩手は生き肝を求めて旅に出、いつしか安達ケ原の岩屋まで来た。ここに旅の若夫婦(妊婦)が宿を求めてきた。その夜ふけ、岩手は包丁で妊婦の生き肝をとったが、これが我が子だと分り、あまりの驚きに気が狂い鬼と化した。
以来、宿を求めた旅人を殺し、生き血を吸い、いつとはなしに「安達ケ原の鬼婆」として広く知れ渡るようになった。数年後、熊野の行者・東光坊が宿を求めた際、岩屋の秘密を知り逃げたが、鬼婆はすさまじい剣幕で追いかけ激しく争う。東光坊が如意輪観音に祈願すると、尊像は虚空はるかに舞上って一大光明を放ち白真弓で鬼婆を射殺してしまった。鬼婆を埋葬した処を黒塚という。この阿闍梨祐慶東光坊が開基したという観世寺には鬼婆が棲んでいた岩屋(笠石)や、夜泣き石、芭蕉休み石、正岡子規句碑などがありました。

後は福島まで歩くのみ、でもまだ残りは17q以上も。途中、八丁目宿の金水晶酒造を経て更にどんどん北へ進みます。福島駅近くになった所でミス、115号線を横断しようと地下道に入った時どういう訳か直進を左折してしまい500m位進んで気が付き戻りました。福島到着は1740分、結局今日は11時間近くで40.5qを歩き、歩数も6万歩を超えました。これは新記録、お蔭で肉刺も成長していました。

夕食は大衆居酒屋で、今日は喜多方産の夢心酒造「奈良萬」、大川酒造店「弥右衛門」を頂きました。

安達太良山 酒蔵探訪11
奥の松酒造(二本松)
享保元年(1716)創業
「奥の松」
大隣寺
二本松少年隊の墓
まつり坂
行田坂 酒蔵探訪12
大七酒造
宝暦2年(1752)創業
「大七」
智恵子の生家 智恵子記念館
観世寺 笠石 夜泣き石 芭蕉休み石 子規句碑
涼しさや聞けば昔は鬼の家
奥州八丁目天満宮 酒蔵探訪13
金水晶酒造(松川)
明治28年(1895)創業
「金水晶」