|
7時半にホテルを出発、自転車通学の高校生とすれ違いながら進み、8時半に川崎観音堂に到着、ここで安産祈願。更に進んで富田宿に入り、9時に山崎八幡宮に到着。ここも和銅2年(709)豊前国宇佐八幡宮の分霊を祀ったことに始まる古い神社。境内には毛利元就ゆかりの石碑もあります。お参りをすると巫女さんから「よくお参り下さいました」と記念にタオルを貰いました。こんな経験は初めて、ちょっと得した気分。
本陣跡は富田郵便局付近ということですが標識がなく、良くわかりません。近くにある浄真寺は、幕末から明治維新にかけて農民主体の山崎隊が駐屯していたとのことですが、今では大きな幼稚園が隣接してあり境内は園児で溢れていました。
更に進んで10時に福川宿の真福寺に到着、寛永年間(1624~1644)に仁徳等怒和尚により開かれ、福川宿の脇本陣としても使われたとのこと。近くに男自慢を造る酒蔵松田本店があります。10時15分に本陣跡に到着、この辺りの住所はずばり本陣町。
その後は夜市川沿いの土手道を進み、更に細い田圃道を進んで11時20分に船山神社に到着。建保4年(1216)流行病を治めるため京都の祗園社の分霊を祀ったとあります。国道2号線と合流した後直ぐに旧道に入り、国道と並行するように椿峠に向けて登ります。椿峠頂上で一旦国道と合流、ここには、庄屋山右衛門、天野屋利兵衛という時代がかった名前の食堂がありますが、どうも天野屋は営業していない様子。信号のない国道2号線を必死の思いで横断して反対側の旧道に入り前を進みます。12時半頃、白菊を造っていた酒蔵跡を経て12時50分に富海宿本陣跡の清水家へ。当時の遺構は門だけが残っています。
13時に西ノ浜の海水浴場でコンビニお握りの昼食。
その後、橘坂を登って浮野峠を目指します。橘坂の中腹に手懸岩があります。山陽道の旅人達はこのあたりに来ると眼下に見える瀬戸内海の絶景にしばし足を止め、この前にある岩に手を懸けて休んだと言い伝えられています。又、尾張の菱屋平七は「筑紫紀行」にこの辺りは東海道の薩埵峠によく似ていると書き残しています。確かに急な崖の下にJR山陽本線と国道2号線、山陽自動車道が走り、その先は海という地形は薩埵峠に良く似ています。更に登っていくと「茶臼山古戦場」があります。毛利氏と大友氏の戦いの間隙を縫って、大内家の再興を願った大内輝弘は大友氏の支援を受けて、永禄12年(1569)に山口占拠を目指して挙兵したが、戦いに敗れこの地でむなしく自害したと説明されています。更に進むと、旧山陽道と書かれた標識があるので細い道を入っていきます。次第に道が悪くなり、細い木が生えていて前に進めません。仕方なく元の道に引き返すとこれが正解。紛らわしい標識は困ったものです。浮野峠を越えてやっとの思いで浮野町に出ました。
15時に周防国衛跡に到着。大化の改新(645)後わが国は中央集権国家を成立させるため、全国60余りの国々にそれぞれ国衛(府)が設けられた。諸国の国衛(府)の所在地があまりはっきりしない中で、周防国衛跡が良く保存されているのは、文治2年(1186)周防国が東大寺の知行国となったことから、治外法権的地位を有していたことによると説明されています。更に進むと多々良大仏殿があります。これは高さ3メートルあり奈良の東大寺大仏殿を模して建立されたもので、周防の国司、俊乗坊重源上人の作と伝えられています。
15時30分に毛利氏庭園、毛利博物館に到着。先ず、毛利邸・毛利博物館を見学しました。毛利邸は大正5年完成で、中には大正天皇皇后、昭和天皇皇后がお泊りになった主人居間(宝の間)もあります。博物館は雪舟の「四季山水図」ほか国宝級の美術工芸品、毛利家の歴史資料が公開されていました。毛利氏庭園は丁度紅葉が真っ盛りでゆったりとした時間を過ごしました。
更に進んで、周防国分寺へ。聖武天皇の災除景福を祈る勅願により国ごとに設置された官寺で立派な金堂、楼門が立っています。
続いて防府天満宮へ。防府天満宮は大宰府へ流された菅原道真公が防府に立ち寄られたことにちなんで、公の死の翌年延喜4年(904)に建立されたもので、菅原道真公をお祭りした社(全国に約12,000社)の中で最も古く創建されており、北野(京都)、大宰府(福岡)とともに日本三天神と称されています。
17時15分に宮市宿本陣の兄部家に到着。兄部家は山陽道、萩往還に面しており、鎌倉時代からの旧家とのこと。
本日はここまでとしてホテルにチェックイン。夜は近くのカウンター10席の小さい居酒屋「橙」で一杯。若いが気持ちの良い主人と話をしながら楽しく3時間ほど過しました。
|